昭和42年11月15日 朝の御理解
(音声不良 途中から)
・・・深い、広い、なかなか素人にはその、何という事かが分からない。( ? )という事になるのですけれども、( ? )お互いに葉隠れ、( ? )
(2分30秒より)
信心の道も同じ事。極めた言葉というのは、深い。深い広いだけでは深さが有難う分かっていくという事である。( ? )有難いのである。
(3分30秒より)
願いが( ? )、お礼が6分だと、お詫びが3分、願いが( ? )( ? )なんですね。ところがお互いお願いの方がまあほとんどです。願いがちょこっと分かり、御礼がもう( ? )ちょこっと分かりという事です。( ? )もっともっと( ? )
(4分45秒より)
というて、願い事も( ? )。信心とはもう神様と交流せん事以外にないのだから。神様と私の中の雰囲気というものを壊さないように壊さないように、(尽くしておる?)ようなものなんですよ。どちらからもその雰囲気を壊したくない、こちらからもあちらからも( ? )。神様が、まあ( ? )を浴びても浴びても限りがない。お礼を申し上げてもお礼を申し上げても、もう( ? )。かというて願う事が( ? )、それこそ雲のように霞のように、それこそもう( ? )の余りにも大きいのに驚く。いうならば( ? )、この雰囲気を壊されたくないという事です。そういう空気を、例えば後ろから槍で突かれても( ? )も、そういうような、そういうような事ではです、今( ? )その、交流というものを(破られたくない?)というような( ? )
(7分10秒より)
( ? )になっておる。いかに福寿海無量( ? )である。その(葡萄?)のおかげを頂く為に、その( ? )の神恩に対してです、神様の心に対して、人間としての( ? )であり、または願いであり、痛いがあれば痛いで、痒いがあれば痒いで、神様の( ? )ができるという事。にもかかわらず、信心もできませんのにというお詫びをしだしたらお詫びにきりがないのであり、願いをし出したら願いに願いにきりがないのであり、お礼を申し上げだしたらもうどれほどお礼を申し上げてもこれで済んだとは思わんというほどのお礼というのが限りがないというのである。ですからもう言いようがないから黙ってその、しとく以外にない。( ? )その、黙って( ? )、雑音も入らなければ( ? )
(8分40秒より)
人間が様々な信心によって体験を負う。その体験からほとばしるように、その体験から、その、生まれてくるところでの( ? )の話といったようなものが、もう聞いても聞いても味わいのあるところが平田さんのお話( ? )であるけれども、はあなるほどそうじゃろうと思う事ばかりだけれども、さあそれをひっくるめてみると、あとはまあ( ? )である。体験というその心を本当に( ? )、やっぱり響いてくる確かな、それはどこまでも平田さんのものだという事なんですよ。( ? )
御理解の中にです、( ? )、神様が( ? )取次者の口を持って取り次いで下さる言葉なのである。表現はまずくとも、このように有難いものはない。または、これこそが神の声 )だと思う(とらっしゃる?)。それは子供の泣き声の中でも、または言う小唄の文句の中からでも神が言うて聞かすと仰るような、これこそ神の言葉だというのがある。先日も総代会の時に、甘木の御信者が挨拶なさった中に言われた(フレーズ?)も、それをどこまで深く捉えておられるかが分かる( ? )分からずいまだに、ただ言葉のアヤとして言われた事であろうけれども、私はその中に神の声として( ? )
(11分30秒より)
だからその事をお話いたしますと( ? )( ? )
(14分30秒より)
安武松太郎という人の事に( ? )であった。何にもなかった。と私はそういう風に思うですね。そんなに安っぽい計算ずくのものじゃないという事。ただ信者の教えられる通りそれを教えられるだけの事。甘木の信者が我情我欲の事ばっかり願うからその一つの方法として教えられただけなのだ。私でさえがそうなのだから、安武先生あたりの場合なんか、なおさらそうであったろうかとこう思う。いうなら信心とはもうゼロなんだ、無なんだと、これは皆極めた言葉です。それだけでは( ? )。そこに教導があるわけなのである。それで、なら、それを(まあ具体化したのは?)、天地の恵みを素直に受けるという事になるのである。それをです、もう少し具体的に言うとです、それがお試しだと受けたり、神様の御都合として受けたり、神様のお繰り合わせじゃろうと受けたりするわけなんです。信心が分からないと、そこは肉眼を置いて心眼を開けと仰る、心眼を開いておれば一つそれが恵みと見えるわけで、心眼を開いてないとそれがですね、やはり、やはりお試しと受けなければならない、ご都合と受けなければならない 、最も重要いうと頂かなければならないといったような事を、まあ細かに、もっともっと具体的に様々な角度からそれは説明される訳なんだけれども、それは葉隠れという(一冊に?)たくさんの事が書いてある、武士道とはこういうものだと、いわば具体的に書いてある本が葉隠れという本でございましょうけれども、それを、けれども、それをいよいよ極めたもの、(?)とでもいうもの、その本も、それは何かと言うと武士道とは死ぬる事ぞとはっきりしておる。その一冊の本なら一冊の本を読んだだけでは分からん、それを様々な日常生活に武士道としての武士道を学ばせていただいておって、( ?)もう武士道と言うのは死ぬることではないのだという事。( ? )、そしてそこにはもう何もないゼロの( ? )。そこには神様と私の間に誰にも犯すことのできない、いや犯されてはならない( ? )、神様と私共の( ? )もなからなければお礼も無い、願いもさらさらないという、そういうような交流がです、神様と私共の上に交わされて( ? )、そこから( ? )。それは男女の関係のそれと同じようなものなのだ。その時には(誰かが?)、それこそ( ? )、犯されてたくない、犯してもならない、そこから良い物が生まれるんです。神様と私共の中にも、そういう( ? )。